2011年07月14日

ボードレール『人工楽園』

シャルル・ボードレール『人工楽園』(角川書店、1955年)を読んだ。

遅くなったが感想だ(というほどのものでもないが)。

「壮麗な夢を見る術、それはすべての人に許された天賦ではない。たとえこの術を心得ている者であっても、この夢想はますます増加してゆく近代的な精力消耗や、乱脈な物質的進歩などによって、それはしだいに減退してゆく危険に曝されている。夢を見るという能力は、神聖な不可思議な能力である。というのは人間が彼を囲繞する暗黒の世界と通信できるのは、唯夢のみであるから。しかし、この能力が自由に展開するためには、孤独が必要である。人間が心を一点に凝縮させればさせるほど、彼の夢見る世界はより豊饒に、より深くなり得る。」(188ページ)

ここでも『シュルレアリスム宣言』の唱えた夢(・想像力・狂気=不可思議)の重要性が説かれている。

そして夢を見るための孤独の重要性も。

孤独はコリン・ウィルソン『アウトサイダー』の中でも重要視されている。

「自己表現とは、他人とのつながりにおいて達成できるものではない。他人の自己表現が邪魔に入ってくるのだ。自己表現が詩や音楽や絵画で絶頂に達するのは、至上の孤独を守る人びとによっておこなわれる。
「至福のヴィジョン」を最も容易に捉えることのできるものは芸術家であるという理由がここにある。芸術家は、自分を訪れる「至上の孤独」の瞬間が深まって、自分の全生命がそれで満たされ、それ以外のものとのつながりは不可能ないし不必要となるような境地を想像しさえすればいい。もちろん、芸術家の他人とのつながりは実際に不必要となりはしない。このうえないインスピレーションの瞬間を体験した芸術家は、喜悦に満ちた心で人びとのもとに還ってゆく。けれども、そんなものは理論的にありうるはずがないと大部分の人びとが考えている完全な孤独、他に人間とのつながりを一切断った境地というものを、芸術家は大なり小なり知っている。」
(コリン・ウィルソン『アウトサイダー』(集英社、1988年)377-378ページ)

つまり、自己表現をするためには他人との関係を一切断たねばならない、ということだ。

俺はここにミシェル・フーコーの「狂気に似た、一切の消費、一切の読者から独立して存在する十九世紀以降のエクリチュール」論との類似性を見る。
また、バタイユの「孤独を生きることを前提とする文学による共同体の企て」との類似性を垣間見るからバタイユも読んでみたい。

時系列的には、ボードレール→アンドレ・ブルトン→コリン・ウィルソンなので、十九世紀末から二十世紀に亘り、孤独の重要性が浸透していたことが分かる。

まだまだ学ばねばならぬことが多々あるな。
まぁ、この歳で学べる環境にあることに感謝するよ。

夏はまだ本気を出していない。
お前達は水分・塩分をしっかり採って熱中症対策するんだぞ?

そんなところだ。
posted by 桜井夕也 at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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