2011年10月17日

アヴァンギャルド

今のやり方で合ってるのかなぁ。というか今のやり方で10年ぐらいやってきたからな……。カットアップでもなく、甘美な死体でもなく、帽子の中の言葉でもなく。

ダダは何も意味しない(ダダ宣言一九一八)。「ツァラに「言いたいこと」があるとすれば、それは「言いたいことは何もない」ということ以外にはありえな」い。バロウズも「言いたいことなど何もな」かった。

「犬たちが観念のようにダイヤモンドのなかの空気を横断し脳脊髄膜の盲腸が設定された目覚めの時間を示すとき……」(二十年十二月の「宣言」)

「それ以後、「二十世紀的なもの」は再び「意味」から遠ざかってゆき、言語の場面はあのアヴァンギャルドたちの試みを思わせるシニフィアンの夢幻劇を模倣しはじめる。TVのコマーシャル、新聞や雑誌のグラビア、街角の広告パネルやネオンサイン等々をつうじて、われわれはツァラが試みた印刷活字の組み方の冒険やブルトンたちが魅了された「ミシンと雨傘の解剖台のうえでの偶然の出会い」を一日に何度でも目にすることができるようになった」(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)

二十一世紀のこの、インターネットやソーシャルメディアの乱痴気やお祭り騒ぎにおける、アヴァンギャルド。

ドゥルーズ後のそれはKenji Siratoriだろうし、それが日本で生まれたことも興味深い/意義深い。

生活するために、Siratoriさんが発表に日本語ではなく、英語を選択せざるを得なかったりすることに、この今の日本の状況ってどうなの?という日本に対する怒りは、昔は公然と持っていたし、今もある。

だからと言って何かの運動を作りたい/参加したい、というわけじゃない。好きなように書きたいだけ。
posted by 桜井夕也 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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