2014年08月15日

存在

マラルメを気取って煙草を吸いながら詩と存在の根底について考えていたけど、先人が考えても答えの出なかったことを考えても答えは出るはずもなく。存在って何。書くということは何。他人を背負う必要がないように「時代」を背負う必要はあるのか。それとも他人を背負う必要はあるのか。「今」を引き受けて書かなければならないのか。そもそも存在の根底をテーマに書く必要はあるのか。何を書くべきか。書く「べき」もの、書く「べき」方法なんてものがあるのか。正誤。善悪。好嫌。正しいこと/間違っていること。善いこと/悪いこと。好きなこと/嫌いなこと。「まだ書ける」という時の対象は「より前へ進んだもの」? 「新しい」もの? だとしたら何を基準に? 「より前へ進んだもの」以外は書いてはいけないのか。「正しく」ないのか。受け止めてもらえないのか。「ウィリアム・バロウズには、そういうブンガクはない。というか、たぶんそんなブンガクなんて、どこにもないのだ。あるのかもしれないけれど、でもそんなものは知らなくったってなんにも困りゃしない。しょせんは小説、好きなように読んで、自分にあわなければほかのモノに手を出せばいい。」(山形浩生『たかがバロウズ本。』)「正しい文学」なんてあったら「正しい」方法に則って「正しい文学」だけを供給し続ければいい。「正しい文学」の書き方を教えてくれ。俺の書きたいものは何か。どのように俺は書きたいか。なぜ書きたいのか。「書きたい」という欲望すら本当は存在していないんじゃないか。書く必要はあるのか。書く必要はないんじゃないのか。俺が書かなくても誰も困りはしない。書かなければ死んでしまうこともない。俺(自分)とは何か。本当に存在してるのか。我思う、故に我ありと言った時、デカルトは自分が狂ってる可能性は排除した。不完全性定理を手に「正しいものなんてないんじゃないですか」と言った時の哲学科教授の「きみは何がしたいの?」という嘲笑。「「この世界が在る」ことを信じる」ことを選択した時から何も変わっていない。何も進んでいない。俺は何がしたいのか。
posted by 桜井夕也 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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