2015年04月26日

2015年5月4日(月祝)E29〜30 PIED PIPER

5月4日(月祝)文学フリマ東京 E-29〜30 PIED PIPER (11:00〜17:00@東京流通センター)
詩と短歌の同人誌『PIED PIPER』を御用意して皆様のお越しをお待ちしております。

マーケティングやパーソナリゼーションによって、自己の唯一無二性が、単なるプロパティ(属性)として計量化・カスタマイズ可能な特殊性と化したが故に、自己の本源的ナルシシズムが簒奪され、自己を愛せない時代。自己を愛せなければひとを愛せない。
自己の唯一無二性を取り戻すために、芸術が特異な感性(感じ方)を宣らすことが必要で、PIED PIPERには特殊性に還元され得ないそうした特異性が屹立していて、個人的に「打ちのめされた」。単なる特殊性ではなく、自己の「かけがえのなさ」を。
存在とは、絶対的に、<共に-複数で-ある>ことだ。それが絶対にわかりあえないという共通の地平で交わされる暴力だとしても、PIED PIPERにはその地平を育む可能性があると自負している。
存在とは、絶対的に、<共に-複数で-ある>ことである。絶対的な孤独・絶望や圧倒的な孤絶・狂気を前にしても、それでも<共に-生きる>ことをぼくらは希求する。微かな、本当に微かな<共生>の希望、<友愛(フィリア)>の希望。祈りとして。<共に-生きる>ことをぼくらは諦めるわけにはいかない。
この本を通じて、真に「共に」いるとはどういうことか、真に「生きる」とはどういうことか、真に「共に生きる」とはどういうことかを、ぼくらと<共に>考えてもらえれば、望外の幸せです。
5月4日、文学フリマ東京@東京流通センター E-29〜30 PIED PIPERで、ぼくらは<きみ>をお待ちしております。

<寄稿者紹介>

草間小鳥子(詩)
『てのひらに冒険』ではミクロからマクロまで自在に動く視点が印象的だったが、『誰か』はやさしさと祈りと希望――単なるオプティミズムではなく、数多の絶望に枝打ちされたものだろう、それらが大きなうねりを作り出している

中山みなみ(詩)
日常のなかの作者の視点による発見、それが「遊び」として、軽やかにはつらつに描かれている

主水透(短歌、装幀)
死と生と不穏な空気にざらつくモノトーンな短歌20首連作

山崎修平(詩、短歌)
さらさらと砂がこぼれるようなとりとめのない時間にやさしさと愛しさを注ぐ。そして「たたかう」決意。

吉田友佳(詩、写真)
ノワールで都会的な、残酷な景色をぼくらは幻視する

和合大地(詩)
詩語の尖ったエートスとプラクシスがこちらの喉元にカッターナイフを突きつけているような、そんなイカれたファンタズム

桜井夕也(詩、短歌)



2015年4月26日
桜井夕也
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2015年04月06日

スラヴォイ・ジジェク『Don't fail in love with yourselves』

ニューヨークでのコンファレンスの会場となった有名な芸術工科大(クーパー・ユニオン)はみずからを「世界」の<九九%>であると自負する人々が結集した現場(ズコッティー・パーク)とは目と鼻の先に位置している。ジジェクはこの「現場」に駆け付け、結集した<九九%>に向かって、次のようにアジった。この真っ当なアジテーションに――おそらくは事後的に――付された表題は、記憶に残されるべきであろう。

「奴らは僕たちが負け犬だと言ってる。でも、本当の負け犬はウォール街の連中だ。連中は僕たちの金で救われたからだ。連中は僕たちを社会主義者と呼んでいる。でもここにあるのは、金持ちだけの社会主義だけだ。連中は言う。僕たちが私有財産に敬意を払わない、と。でも二〇〇八年の金融崩壊では、ここに集まった僕たちみんながここ数週間で毎日壊したとされる財産を超える、連中が必死に溜め込んだ私有財産が破壊されたじゃないか。連中は僕らが夢想家だと言ってる。でも、本当の夢想家とは、明日が今日と同じように永遠に続くと思っている連中じゃないのか。僕たちは夢想家じゃない。僕たちは悪夢に変わった夢から目覚めたのだ。
僕たちは何も壊していない。僕たちはシステムの自壊を目撃しているにすぎない。みんな、漫画によくある例のシーンを知っているだろ。断崖に突入した猫が、その先に地面がないことを無視して、走り続けるシーンを。見下ろして、地面がないことを知ったときには、すでに落ち始めているという例のシーンを。……僕たちはウォール街の連中に、「おい、下を見ろ!」って言っているんだ。
二〇一一年の四月中旬、中国政府は、現状とは違う本当のこと(リアリティ)やタイム・トラベルを含むすべての物語がテレビや映画そして小説で描かれることを禁止した。これは中国にとって良い徴候だ。なぜって、中国人たちが今とは違うことを夢見ているからこそ、政府がこの夢想を禁止せねばならなかったことを、それは物語っているからだ。だがここでは、禁止は不要だ。なぜって、支配システムが夢を見る僕たちの能力さえ抑圧しているからだ。僕たちが始終見ている映画を見るだけで充分だ。世界の終わりが簡単に想像できる。小惑星などがあらゆる生命を破壊している。でも僕たちは、資本主義の終わりを想像できない。
〔……〕
厄介なことが一つある。それは自分に酔い痴れることだ。僕たちは、いまは盛り上がっている。でも、お祭りは結局ちっぽけに終わることを忘れないで欲しい。問題は、その後だ。僕たちが普通の生活に戻ったとき、そのとき、まだ変化〔への欲望〕は残っているだろうか。分かるだろう。僕は君たちに、「あのとき僕たちは若かったし、とても美しかった」みたいに、在りし日を振り返るようなことをして欲しくないんだ。覚えてて欲しい。僕たちの基本的メッセージが「違ったやり方を考えることができる」だということを。タブーが打ち破られてしまえば、考えられる最良の世界に生きているわけではなくなるんだ。その先には苦難の長い道が続いている。だから、僕たちがぶつかっている本当に難しい問題があるんだ。僕たちは自分が望んでいないことが何かを確実に知っている。でも問題は、僕たちが何を望んでいるかを知らないということだ。どんな社会組織が資本主義に取って代わるのか? どんなタイプの新しい指導者を僕たちは望んでいるのか?
忘れないで欲しい。問題は腐敗や強欲なんかじゃないことを。問題はシステムだ。システムが僕たちに腐敗を強いるんだ。敵だけじゃなく、すでにこの過程を弱めようとして蠢いている偽りの友人たちにも、気をつけよう。……僕たちがここにいるのは、コーラの缶をリサイクルしたり、数ドルを慈善団体に寄付したり、第三世界の飢えた子どもたちに料金の一パーセントを送るためにスタバのカプチーノを買ったりすることで気分が良くなるような、そんな世界にウンザリしているからだ。仕事や拷問を外注したり、結婚紹介所が僕たちの愛に成り代わってたりするような世界の次に、何が来るのか? 政治参加の外注だ。僕たちはそれを取り戻さなくちゃならない。
共産主義が一九九〇年に崩壊したシステムを意味しているなら、僕たちはそうした類いの共産主義者じゃない。忘れないで欲しい。その類いの共産主義者は最も効率的で最も容赦ない資本家だったことを。現代の中国には、アメリカ資本主義よりももっとダイナミックな資本主義がある。でもそれは、民主主義を必要としていない。これは、資本主義を批判することが民主主義を批判することだという脅迫に屈してはならない、ということを意味している。
僕たちは現在、何が可能だと思っているのだろう? ……僕たちは高い水準の生活を望んではいない。僕たちは生きるにあたってよりよい標準を望んでいるんだ。僕たちが共産主義者であるただ一つの意味は、コモンに気配るということだ……。
共産主義は徹底的に失敗した。でも、コモンの問題がそこに残っている。……ただ一つ心配なのは、君たちがいつか家に帰り、年に一度集まって、ビールを呑みながら、「あれは楽しかったね」と、今日のことを懐かしげに思い出すことだ。……僕たちは知っている。しばしば人びとは何かを欲しがるけれど、じつは本気じゃないことを。君たちが欲しがっていることを本当に手に入れることを恐れないで欲しい。」

スラヴォイ・ジジェク『Don't fail in love with yourselves』
『共産主義の理念』(水声社、2012)「訳者「あとがき」」より
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2014年09月22日

和合大地『赤蒸気』『SIESTA』

写真.JPG

『ジェーン・ステファニー・クリスティー・アイリーン・エイミー・ブリトニー・シンディー・キャメロン・ベッキー・コリンナ・クリスタル・イーヴァ・デボラ・フィオナ・ジョージアナ・ヒラリー・キンバリー・ジーン・リリアン・マーガレット・ルーシー「さて」』

詩人らしい吃りもなく、哲学者らしい訛りもなく、存在の根拠の無さに恐怖を感じて飛び降りることもなく、<共>にあることに思いを馳せることもない、この俺に、魂が、差し出されたが、それに何て応えればいい。

高速道路。路肩に車を停めて、透明なコンビナートに煙草を吸う。
フルスロットルのモンスターバイクが1000CCの排気(エグゾースト)をする。

「突然だが、メアリー
きみは今日から比喩ではなくなった
だから、絵を 絵を描いて欲しい」

あらゆるイメージが、イコンが、ファッションが、思想が、乱立する。
俺はDNAの二重螺旋めいてゆるやかに伸びる紫煙を見つめてる。

<共>にあること、共同体の(不)可能性、存在の根拠の無さの豊饒さ、思考の不可能性、両立し得ぬものの統合、自己の更新。
そんなもん、どうでもいいっすわ。
アラフォーで、不惑をすぐそこで迎えるおっさんの俺のようにはなるなよ。
なんて、もうわかってるだろうけど。

「生ぬるい地獄の性 川の体温の写生に限りなく近い2本の電柱の絵を描いてくれ
青苦く錆びて浅く綻んでいく僕には絶対似合わない2本の電柱の絵を描いてくれ」

Black Russian――金口に黒い巻紙――を咥えながら、Hypnotic Poisonに笑む。
俺はここで何とかやっていくさ。
一気に駆け抜けろ。



(「」内は和合大地『詩誌・赤蒸気 第1号』及び『SIESTA』内『ジェーン・ステファニー・クリスティー・アイリーン・エイミー・ブリトニー・シンディー・キャメロン・ベッキー・コリンナ・クリスタル・イーヴァ・デボラ・フィオナ・ジョージアナ・ヒラリー・キンバリー・ジーン・リリアン・マーガレット・ルーシー「さて」』による。……それにしてもタイトル長ぇな。煙草切らしちまった……)
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2014年08月15日

存在

マラルメを気取って煙草を吸いながら詩と存在の根底について考えていたけど、先人が考えても答えの出なかったことを考えても答えは出るはずもなく。存在って何。書くということは何。他人を背負う必要がないように「時代」を背負う必要はあるのか。それとも他人を背負う必要はあるのか。「今」を引き受けて書かなければならないのか。そもそも存在の根底をテーマに書く必要はあるのか。何を書くべきか。書く「べき」もの、書く「べき」方法なんてものがあるのか。正誤。善悪。好嫌。正しいこと/間違っていること。善いこと/悪いこと。好きなこと/嫌いなこと。「まだ書ける」という時の対象は「より前へ進んだもの」? 「新しい」もの? だとしたら何を基準に? 「より前へ進んだもの」以外は書いてはいけないのか。「正しく」ないのか。受け止めてもらえないのか。「ウィリアム・バロウズには、そういうブンガクはない。というか、たぶんそんなブンガクなんて、どこにもないのだ。あるのかもしれないけれど、でもそんなものは知らなくったってなんにも困りゃしない。しょせんは小説、好きなように読んで、自分にあわなければほかのモノに手を出せばいい。」(山形浩生『たかがバロウズ本。』)「正しい文学」なんてあったら「正しい」方法に則って「正しい文学」だけを供給し続ければいい。「正しい文学」の書き方を教えてくれ。俺の書きたいものは何か。どのように俺は書きたいか。なぜ書きたいのか。「書きたい」という欲望すら本当は存在していないんじゃないか。書く必要はあるのか。書く必要はないんじゃないのか。俺が書かなくても誰も困りはしない。書かなければ死んでしまうこともない。俺(自分)とは何か。本当に存在してるのか。我思う、故に我ありと言った時、デカルトは自分が狂ってる可能性は排除した。不完全性定理を手に「正しいものなんてないんじゃないですか」と言った時の哲学科教授の「きみは何がしたいの?」という嘲笑。「「この世界が在る」ことを信じる」ことを選択した時から何も変わっていない。何も進んでいない。俺は何がしたいのか。
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2014年01月28日

家父長制的な家族と友愛以外の生は可能か

家父長制的な家族と友愛以外の生は可能か。

宇野常寛によれば、大河ドラマ『平清盛』の脚本家、藤本有紀は『ギャルサー』『ちりとてちん』『愛と友情のブギウギ』『ミニモニ。でブレーメンの音楽隊』『咲くやこの花』において、女性の解放の物語を描いている。

「いま、僕の挙げた藤本作品はいずれも女性の解放の物語だ。彼女たちはいずれも居場所を見つけられていなかったり、女性としての自分を受け入れられなかったりしている。そんな彼女たちを救うのは(男たちのような)立身出世でもなく、(ほかの女たちのような)恋愛市場で高く取引されることでもない。彼女たちに自分を発見させ、受け入れさせるきっかけを与えるのはいつも「遊び」なのだ。『ギャルサー』ではパラパラ、『ちりとてちん』では落語、『愛と友情のブギウギ』では歌、『ミニモニ。でブレーメンの音楽隊』では合奏、そして『咲くやこの花』では百人一首かるた……。どの作品でも、彼女たちはさまざまな理由から「芸」や「遊び」の世界に惹かれていく。そしてその楽しさに夢中になっているうちにいつの間にか、自分でも気づかないあいだにこれまで拒絶していたものを受け入れられるようになったり、仲間を見つけて自分の居場所を見つけられるようになったりしている。」(宇野常寛『原子爆弾とジョーカー』)

そして『平清盛』では、平家=家族愛的共同体、源氏=友愛的共同体として描かれ、そして平家は滅亡し、頼朝率いる源氏は「御家人」という友愛的な共同体のシステムを作り上げることで新体制=鎌倉幕府を開くことになる。

家父長制的な家族と友愛以外の生は可能か。
この問いは、「友愛」に敗北し失恋をした個人的な過去に基づく。

ゲイであるミシェル・フーコーは、晩年の著書『快楽の活用』『自己への配慮』において、古代ギリシャ・ローマにおける性を描いている。それは、「朋友愛(アミティエ)」を探求するための準備作業に過ぎなかったが、彼は志半ばでエイズで逝った。彼は、この朋友愛こそが、ゲイの文化が、異性愛者へも広がりを持てる根拠となるものだと考えていた。

「もし可能なら、そのときゲイの文化は、ホモセクシュアルのためのホモセクシュアルの一つの選択というものではなくなるでしょう。それは、ある点までは、異性愛者に対して移し替えることができる関係を創造することへと進みます。ある時期にいわれた「社会的諸関係の一般的な規範的枠組みのなかに同性愛を再び組み込もう」ということよりも、むしろ少々物事をひっくりかえすことが必要です。逆のことをいうのです。「だめだ、われわれをこの社会に押し込めている諸関係のあらゆる可能な枠組みから、同性愛を抜け出させよう。
新しい関係を生み出す権利を提示することで、われわれは、同性愛者ではない人々が、自分たちの関係の枠組みを変えることで人生を豊かにすることを目の当たりにするでしょう。」(ミシェル・フーコー「性的な快楽の社会的勝利」『クリストファー・ストリート』1982年5月号)

伊藤計劃『ハーモニー』において、フーコーの言うところの「権力は生産的・効率的な方向に生をコントロールする」というテーゼが「人類補完計画」として結実した。
フーコーは『監獄の誕生』や『知への意思』において、なぜ権力の存在論や善悪論ではなく、技術論――学校で、工場で、仕事場で、監獄で、病院で、軍隊で、人々を生産的に、能率的にさせる細々とした技術や道具を描いたのか。実際にフーコーが言っていることだが、哲学が反権力たろうとすれば権力の善悪ではなく、「権力はいかに行使されるか」という、そのメカニズムを問わなければならないからだ。

「権力に根拠を与えたりそれを正当化したりするのではなく、反権力の側に立つ哲学は、今なお可能だと思うが、そこには一つの条件が要る。反権力としての哲学であるためには、哲学は立法者とか預言者、あるいは教育者であろうとする野心を捨てねばならぬ。そして、自己の務めを、権力に対して行われる闘争を分析し明らかにし、したがって強化するという役割に限定しなければならない。つまり哲学は、権力の問題を、善悪のような道徳的な問題や法律的な観点から提出するのではなく、単純に素朴な問いとして提出すること、すなわち権力の関係とは一体どういうことに存するのかを問うことなのである。」(ミシェル・フーコー「現代の権力を問う」『朝日ジャーナル』1978年6月2日号30ページ)

この意味で伊藤計劃の作品は哲学であって、つまり、執拗に緻密に「権力」の極端を描くことによってそのメカニズムを、技術を問うている。

「われわれは、日々、私の身体は、いかなるものなのか、この身体と私とはどのようにつながっているのだろうか、そもそもこの身体を動かしている「私」とは何者なのか、と問い続けている。一方で、この「私」は、国家への奉仕(国民たる者の義務)を強いられているが、他方では、家族制度、学校制度、企業体制、マスメディア、労働組合、政党、あらゆる装置(社会的諸関係という網の目)の介在によって、痒いところに手が届くように面倒をみてもらうことで、「私」という存在を仕上げてきた。
だがそうした「私」を作り上げてきた装置がすべて機能しなくなったとき、そのとき「私」は、いかなる存在でありうるのか。
またそのとき、「私」と私ではない「他者」とは、どのように出会い、どのように結びつきあえるのだろうか」(桜井哲夫『フーコー』)

「巨大な綾波」も『ハーモニー』の結末も、「私」という、意識のバトルロワイヤルをデリートした。上記の問いの、そのぎりぎりまで迫った。
しかし、3.11後において、未曽有の、想定外の、人類のコントロールの及ばない事態が生じた今、「巨大な綾波」はもはや最先端たり得るのだろうか。
たとえば人類が宇宙人と出会ったとして、自我を失いただ「自明のこと」をルーティンとして生きるヒトは、その時何ができるのだろう。たとえば『ニューロマンサー』のウインターミュート(人工知能)や同書の最後の地球外生命体等、想定外の、人類のコントロール不能なことが起きたらヒトはどうするのだろう。たとえば、自明なことばかりで意識が必要ないのであれば、『マトリックス』のように機械に反乱を起こされた時どうするのだろう。

「私を駆りたてた動機はというと、それに反して、ごく単純であった。ある人々にとっては、私はその動機だけで充分であってくれればよいと思っている。それは好奇心だ――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保証すべきだとするならば、そして、知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにはどれほどの価値があろうか? はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。自分自身とのこのような戯れは舞台裏に隠れてさえいればいい、とか、結果が出てしまえばおのずから消え去る準備作業の、せいぜい一部分なのだ、とかいずれ言い出す人もあるにちがいない。しかし、哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったい何であろう? 自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう? 哲学の言説がほかの人々に法則(おきて)を押しつけたい、その人々の真理がどこにあるか、いかにそれを見出すべきかを彼らに言いたい、と外側からそう望む場合には、また、哲学の言説が彼らの歩みを無邪気な実証性において教授できると自負する場合には、つねに哲学の言説には、嘲笑すべき何かが存在する。ところが、哲学の言説が自分に無関係な何らかの知にかんして行なう鍛錬によって、いったい何が自分自身の思索のなかで変わりうるか、それを探究するのはその言説の当然の権利なのである。≪試み(エッセー)≫――それは真理の働き(ゲーム)のなかでの自己自身の変化をめざす試練、という意味でなければならず、意思疎通(コミュニケーション)を目ざして他者をあまりにも単純化したやり方で専有する、という意味に理解してはならないのだ――こそは、哲学の生ける本体なのである。少なくとも今日なお哲学が、昔そうであったもの、すなわち、思索における一種の≪禁欲苦行≫、一種の自己鍛錬である場合には。」(ミシェル・フーコー『快楽の活用』)

バタイユの、性と死との結合、神なき神学の打ち立てを目指す絶望的な試みに端を発する宣戦布告だ。

正直眠すぎて何を書いているのかわからない。
posted by 桜井夕也 at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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