2014年01月28日

家父長制的な家族と友愛以外の生は可能か

家父長制的な家族と友愛以外の生は可能か。

宇野常寛によれば、大河ドラマ『平清盛』の脚本家、藤本有紀は『ギャルサー』『ちりとてちん』『愛と友情のブギウギ』『ミニモニ。でブレーメンの音楽隊』『咲くやこの花』において、女性の解放の物語を描いている。

「いま、僕の挙げた藤本作品はいずれも女性の解放の物語だ。彼女たちはいずれも居場所を見つけられていなかったり、女性としての自分を受け入れられなかったりしている。そんな彼女たちを救うのは(男たちのような)立身出世でもなく、(ほかの女たちのような)恋愛市場で高く取引されることでもない。彼女たちに自分を発見させ、受け入れさせるきっかけを与えるのはいつも「遊び」なのだ。『ギャルサー』ではパラパラ、『ちりとてちん』では落語、『愛と友情のブギウギ』では歌、『ミニモニ。でブレーメンの音楽隊』では合奏、そして『咲くやこの花』では百人一首かるた……。どの作品でも、彼女たちはさまざまな理由から「芸」や「遊び」の世界に惹かれていく。そしてその楽しさに夢中になっているうちにいつの間にか、自分でも気づかないあいだにこれまで拒絶していたものを受け入れられるようになったり、仲間を見つけて自分の居場所を見つけられるようになったりしている。」(宇野常寛『原子爆弾とジョーカー』)

そして『平清盛』では、平家=家族愛的共同体、源氏=友愛的共同体として描かれ、そして平家は滅亡し、頼朝率いる源氏は「御家人」という友愛的な共同体のシステムを作り上げることで新体制=鎌倉幕府を開くことになる。

家父長制的な家族と友愛以外の生は可能か。
この問いは、「友愛」に敗北し失恋をした個人的な過去に基づく。

ゲイであるミシェル・フーコーは、晩年の著書『快楽の活用』『自己への配慮』において、古代ギリシャ・ローマにおける性を描いている。それは、「朋友愛(アミティエ)」を探求するための準備作業に過ぎなかったが、彼は志半ばでエイズで逝った。彼は、この朋友愛こそが、ゲイの文化が、異性愛者へも広がりを持てる根拠となるものだと考えていた。

「もし可能なら、そのときゲイの文化は、ホモセクシュアルのためのホモセクシュアルの一つの選択というものではなくなるでしょう。それは、ある点までは、異性愛者に対して移し替えることができる関係を創造することへと進みます。ある時期にいわれた「社会的諸関係の一般的な規範的枠組みのなかに同性愛を再び組み込もう」ということよりも、むしろ少々物事をひっくりかえすことが必要です。逆のことをいうのです。「だめだ、われわれをこの社会に押し込めている諸関係のあらゆる可能な枠組みから、同性愛を抜け出させよう。
新しい関係を生み出す権利を提示することで、われわれは、同性愛者ではない人々が、自分たちの関係の枠組みを変えることで人生を豊かにすることを目の当たりにするでしょう。」(ミシェル・フーコー「性的な快楽の社会的勝利」『クリストファー・ストリート』1982年5月号)

伊藤計劃『ハーモニー』において、フーコーの言うところの「権力は生産的・効率的な方向に生をコントロールする」というテーゼが「人類補完計画」として結実した。
フーコーは『監獄の誕生』や『知への意思』において、なぜ権力の存在論や善悪論ではなく、技術論――学校で、工場で、仕事場で、監獄で、病院で、軍隊で、人々を生産的に、能率的にさせる細々とした技術や道具を描いたのか。実際にフーコーが言っていることだが、哲学が反権力たろうとすれば権力の善悪ではなく、「権力はいかに行使されるか」という、そのメカニズムを問わなければならないからだ。

「権力に根拠を与えたりそれを正当化したりするのではなく、反権力の側に立つ哲学は、今なお可能だと思うが、そこには一つの条件が要る。反権力としての哲学であるためには、哲学は立法者とか預言者、あるいは教育者であろうとする野心を捨てねばならぬ。そして、自己の務めを、権力に対して行われる闘争を分析し明らかにし、したがって強化するという役割に限定しなければならない。つまり哲学は、権力の問題を、善悪のような道徳的な問題や法律的な観点から提出するのではなく、単純に素朴な問いとして提出すること、すなわち権力の関係とは一体どういうことに存するのかを問うことなのである。」(ミシェル・フーコー「現代の権力を問う」『朝日ジャーナル』1978年6月2日号30ページ)

この意味で伊藤計劃の作品は哲学であって、つまり、執拗に緻密に「権力」の極端を描くことによってそのメカニズムを、技術を問うている。

「われわれは、日々、私の身体は、いかなるものなのか、この身体と私とはどのようにつながっているのだろうか、そもそもこの身体を動かしている「私」とは何者なのか、と問い続けている。一方で、この「私」は、国家への奉仕(国民たる者の義務)を強いられているが、他方では、家族制度、学校制度、企業体制、マスメディア、労働組合、政党、あらゆる装置(社会的諸関係という網の目)の介在によって、痒いところに手が届くように面倒をみてもらうことで、「私」という存在を仕上げてきた。
だがそうした「私」を作り上げてきた装置がすべて機能しなくなったとき、そのとき「私」は、いかなる存在でありうるのか。
またそのとき、「私」と私ではない「他者」とは、どのように出会い、どのように結びつきあえるのだろうか」(桜井哲夫『フーコー』)

「巨大な綾波」も『ハーモニー』の結末も、「私」という、意識のバトルロワイヤルをデリートした。上記の問いの、そのぎりぎりまで迫った。
しかし、3.11後において、未曽有の、想定外の、人類のコントロールの及ばない事態が生じた今、「巨大な綾波」はもはや最先端たり得るのだろうか。
たとえば人類が宇宙人と出会ったとして、自我を失いただ「自明のこと」をルーティンとして生きるヒトは、その時何ができるのだろう。たとえば『ニューロマンサー』のウインターミュート(人工知能)や同書の最後の地球外生命体等、想定外の、人類のコントロール不能なことが起きたらヒトはどうするのだろう。たとえば、自明なことばかりで意識が必要ないのであれば、『マトリックス』のように機械に反乱を起こされた時どうするのだろう。

「私を駆りたてた動機はというと、それに反して、ごく単純であった。ある人々にとっては、私はその動機だけで充分であってくれればよいと思っている。それは好奇心だ――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保証すべきだとするならば、そして、知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにはどれほどの価値があろうか? はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。自分自身とのこのような戯れは舞台裏に隠れてさえいればいい、とか、結果が出てしまえばおのずから消え去る準備作業の、せいぜい一部分なのだ、とかいずれ言い出す人もあるにちがいない。しかし、哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったい何であろう? 自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう? 哲学の言説がほかの人々に法則(おきて)を押しつけたい、その人々の真理がどこにあるか、いかにそれを見出すべきかを彼らに言いたい、と外側からそう望む場合には、また、哲学の言説が彼らの歩みを無邪気な実証性において教授できると自負する場合には、つねに哲学の言説には、嘲笑すべき何かが存在する。ところが、哲学の言説が自分に無関係な何らかの知にかんして行なう鍛錬によって、いったい何が自分自身の思索のなかで変わりうるか、それを探究するのはその言説の当然の権利なのである。≪試み(エッセー)≫――それは真理の働き(ゲーム)のなかでの自己自身の変化をめざす試練、という意味でなければならず、意思疎通(コミュニケーション)を目ざして他者をあまりにも単純化したやり方で専有する、という意味に理解してはならないのだ――こそは、哲学の生ける本体なのである。少なくとも今日なお哲学が、昔そうであったもの、すなわち、思索における一種の≪禁欲苦行≫、一種の自己鍛錬である場合には。」(ミシェル・フーコー『快楽の活用』)

バタイユの、性と死との結合、神なき神学の打ち立てを目指す絶望的な試みに端を発する宣戦布告だ。

正直眠すぎて何を書いているのかわからない。
posted by 桜井夕也 at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月12日

The End of the Dream

「痛みを覚悟して 希望を叫ぶだけ」
LUNA SEA - The End of the Dream

どれだけ「読者を意識していないとは思っていたけどこれほどとは思わなかった」と言われても

どれだけ「読みづらい」と言われても

どれだけ「中二病」と言われても

俺はXXXを叫ぶだけ
俺が俺であるために
posted by 桜井夕也 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月06日

柳川麻衣『ロータス』感想

「致死量のくちづけで お別れを」
another cell "Blazing darkness"

柳川麻衣『ロータス』。
幼稚舎から大学までの一貫教育を誇る女子学院を舞台にした連作だ。

少女達の、友情以上恋愛未満の関係。
少女であることの、女であることの、痛み。
弱さ、脆さ、儚さ、危うさ。
「世間の常識」から外れるが故の、思春期特有の、そうした痛みが描かれるが故に、切ない。

ある時は演劇部での親密な関係、ある時は一緒にシスターを目指す二人の少女、ある時は下着によって武装する女性、ある時は男装の麗人とロリータ女装男子……。

それぞれが痛みを抱え、もがいている。

「そういうことをずっと続けてるのって、やっぱりどこかおかしいのかな。大人になれないっていうか。でもねあたし、ずっと思ってたんだけど、大人になりたくてもなれないからこそ、こういう服を着てるんであって」
『ロータス』285ページ

バタイユによれば、ボードレールは「一方では、彼の覚書(ノート)は仕事への決意にみちている。ところが一方、彼の生涯は、生産活動への長期にわたる拒否でしかなかった。」(ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』)
「すなわちありのままの事実として、彼(ボードレール)のなかで優位を占めていたものは、仕事することへの拒否で」あった。
バタイユはウィリアム・ブレイクに関してこうも言っている。「詩人とは、この世では、永遠にひとり立ちできない mineur ものなのだろう。」
また、「カフカは、世の真正な作家たちの例に漏れず、これ(目的の優位性)とはきびしく対立する現在の優位性を固持しながら、子供らしく生きようとする人間だった。」
「彼(カフカ)は、単純に、工業化され商業化されて、もっぱら利害に明け暮れている行動性の世界のなかで、鼻もちのならない人間となるようにと心がけたのである。つまり、彼は、夢想という小児性のなかにとどまることを欲したのだ。」

大人になるということ。成長するということ。行動の中で、未来の中で、打算の中で、計略の中で生きるということ。
少女たちは、大人になることを拒絶し、「子ども」のままでいようとする。

物語は時代を刻々と変え、少女達の物語を紡いでゆく。
その中である時は核となり、ある時は影となり、彼女達を見守るのが蓮実――女性ではあるが、どこか中性的な、無性的な、全てに対して無関心に見える女性――だ。

最終章『ロータスU』ではそんな達観したような蓮実が持つ、弱さや痛みが描かれる。
ずっと、待っていた。
君が来るのを、ずっと待っていた。
それは、性差や年齢や服装に関係のない、絆の物語。

作品名:ロータス LOTUS
著者:柳川麻衣
発行日:2012年11月18日
サークル名:痛覚
http://words-in-pain.hacca.jp/pain/
posted by 桜井夕也 at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学フリマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月21日

第十五回文学フリマおつかれさまでした

文学フリマおつかれさまでした。

いやー、疲れた。
本当に疲れた。

ベトナム出張帰りで虚ろな目をしてぼんやりした笑顔を浮かべて売り子をしておりました。

上の空感は否めない。

売り上げは、
『Chrome Exhaust -Black Russian-』(新刊)8冊
『Chrome Exhaust -REIGNITION-』3冊
の計11冊でした。

『REIGNITION』も『HAKENKREUZ HALLUCINATION』も残部僅少となりました。
再版しなければならないんですが、どこかいい印刷所ないですかねー。

今回は今までいらっしゃらなかった女性のお客様が多く、また男性でも初めていらっしゃった方もいて、うれしかったです。

打ち上げは秋葉原で某さんたちにまぜていただき、ほんわかと楽しい時間を過ごせました。
ありがとうございました。

サークル出展者の方々、お客様、運営の方々、打ち上げにまぜていただいた某さん、売り子を手伝っていただいたYさん。
おつかれさまでした。
そしてありがとうございました。

逃げ場所、居場所、帰る場所の三つがあるとして、
文学フリマは帰る場所ではないかもしれませんが、少なくとも私にとっては居場所であり続けています。

次回は来年4月14日の第十六回文学フリマin大阪か、4月28日の文学フリマスピンアウトイベントに出展予定です。

今後ともCult Trash並びに桜井夕也をよろしくお願い致します。

下記のページに参加者の感想リンク集があるはずです。
http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20121118
posted by 桜井夕也 at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学フリマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月05日

第十五回文学フリマ参戦

11/18(日)の文学フリマ、Cult Trashは近未来散文詩を爆弾代わりに携えて参戦します。21世紀の神なきボーグどもへの宣戦布告。神は死んだ。歌舞伎町の[Code of C](聖戦)をRE:IGNITION(再点火)しろ。

開催日:2012年11月18日(日)
開催時間:11:00〜17:00
会場:東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)
アクセス:東京モノレール「流通センター駅」徒歩1分
サークル名:Cult Trash
配置番号:ウ-05
http://bunfree.net/

販売作品
(1)『Chrome Exhaust -Black Russian-』(予価600円)

九次元の666道輪廻に堕ちるサイコホリック・ヒップホップなМаКiさんの詩、『兎』。

資本主義神学と共産主義無神論がインターネットをクローンするサイバーパンク・アヴァンポップな白鳥健次(Kenji Siratori)さんの『偽情報性身体』。

桜井夕也の
サイバーパンクな散文詩『Black Russian』
サイバーゴシックな小説『Venus Prototype』
実験的なヴィジュアル系黙示録メタフィクション『Reason for Treason』
いつもどおりのサイバーパンクな散文詩『LAST BIBLE』

を含むA5版、60ページの新作。

(2)『HAKENKREUZ HALLUCINATION』(2000円)
10余年に亘り書き継がれたサイバーパンク散文詩。
サイバーゴシックな反=神学に覚醒せよ。
A5版、170ページ。

(3)『Chrome Exhaust -REIGNITION-』(500円)
桜井夕也第二章の幕開け。
クロームな排気管から噴き出るREIGNITION(再点火)を告げるエグゾースト。
原罪なきレゾンデートルの時代の神なきボーグども、欲望仕掛けの近未来デジタルデカダンスに酔え。
21世紀、インターネット時代のアヴァンギャルドを暴走する作家Kenji Siratori氏による未発表日本語作品『Mr. 幻覚』も収録。
A5版、20ページ。
posted by 桜井夕也 at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学フリマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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